先日、小学4年生と2年生の甥っ子たちと電車に乗ってお出かけしました。
彼らは子供用のマイPASMOを首からさげていて、ゲーム感覚で楽しそうに使っていたのです。
電車の乗り降りのとき、ピコッ「あ、残り1560円に なった」ピコッ「160円とられた」「あ今度は100円とられた」と数字が 変わるのを観察しています。
私はすかさず後からこんなことをたずねてみました。
「ねぇ、取られたってどういう意味?取られたっていうと まるで泥棒されたみたいじゃん。なんかヘンじゃない?」と彼らに聞いてみました。
「だってさ、お金が減ってるんだから取られてるって事じゃん」という意見でした。
大人でも普通にこの言葉って使いますよね? お金の支払いの話題で「いくら取られた」とか。
私はなぜか、そんな会話を聞くとなんとなく「人聞き悪いわ...」 と思ってしまうのです。
電車代ならば、電車にのせてもらったサービスの代償として のお金の支払いなんだから、”取られた” という言い方は 電車会社側からしたら不本意ではないでしょうか。
それからちょっと違いますが「歯医者で歯を抜かれた」「神経抜かれた」など「◯◯された」と言う人も結構います。
道を歩いてたらいきなり押さえつけられて、歯を抜かれて しまったのならまだしも、自分の意志で歯科医院に行って 悪くなってしまった歯のレントゲンを撮って、その結果の 最善の治療法であっただろうと思います。
もしもその診断が気に入らなかったなら「その治療法は やらないでください」とひとこと言えるはずです。
なので「された」って、どーいう事!?と、そんな言い回しを 聞く度に思ってしまいます。
私が気になっているのは、国語的な意味合いでの言葉の遣い方 ではありません。
言葉遣いや口癖がエネルギーレベルで影響
「エネルギー的に悪い影響、エネルギー的に良い影響」という 観点からこの言い回しが気になってしまうのです。
言い方ひとつで、自分自身のエネルギーレベルに変化を及ぼす のですから、できれば甥っ子達にも「良いエネルギーで満たされる言葉遣いの習慣」を身につけてほしいな〜と切に願います。
毎日の事ですからね。 何事も「自分の意志」で決めて「自分の意志」で行動していく という習慣です。
それを実践する上での「良い言葉遣い」のことを指しています。
○○された、は被害者の口癖
「取られた」
「やられた」
「されてしまった」
これらの言葉は、 自らを被害者にしたてている言い回しになります。
他者の意志によって何かをやらされたのであり、自分自身では コントロール不能であるという事になります。
このような言葉遣いが日常に繰り返されていたり、独り言や 頭の中でそう思っただけでも、それが自己イメージになって 染み付いていってしまいます。
被害者的エネルギーが増える ということでしょうか。 「やらされている感」は、あってはならないし、言うのも 脳の機能科学的にはNG!
そうではなく、
「なぜ自分はそれをするのか?」
「なぜそれをしたいのか?」
立ち止まってこの質問を自分に投げかけ、脳で考えてみるのです。
自らが望んで選択した結果「お金を払ったのだ」「やってもらった んだ」という意識を持ち、言葉遣いを心がけ語ること。
そういう自分が自分を管理する「主導権を握っている意識」 と「言葉遣い」が活力と生命エネルギーを生み出します!
こんな叔母、いちいちうるさいと思われちゃうかなぁ。
まぁ、甥っ子達よ未来に期待しててくれっ!「言葉の遣い方で未来は創られる」このことを覚えておいておくれ。