まだ寒かったころ、写真の師匠からこんな課題が出されました。
「春を感じさせるものを撮ってきて」というものです。
私は外を散歩してみて「春だなぁ」と感じたら、それを写真におさめようと思って、出掛けました。
まだ寒い冬だけど、小さい春をいっぱい見つけるお散歩です。午後になると、日差しのあたたかさが増してきてポカポカしてきました。
上を見るとお寺の立派な門の瓦に陽があたり「光」が反射していました。
それを見て「あ〜、あたたかいな〜、春が近づいてるな〜」と感じたので「光」を撮ってみました(トップ↑の写真)。
この他にも、甘くほのかな香りを漂わせている梅の花のつぼみの写真や、小鳥の写真などを撮りましたが、結局提出するのはこれになりました。
先生に提出する写真を選んでいて、ふと気づいたことがありました。
「この写真は作風的(!?)に私らしくはないよね...」って。
どういう基準で提出するのをこの写真にしたかというと、課題を出した師匠が好みそうだと思ったから選んだ。
と、いうことが自分を観察してみてわかりました。
これは、なかなか面白い発見。
教える側も千差万別だからこそ
写真は自分の中の非言語の感覚を表現したもの。
写真家によって作風というものがあるし、それは人によりぜんぜん違います。
だから、他者の写真への評価も人によってぜんぜん違います。(スキル的なことではなく、構図などセンスの部分のことです)
これまで、数名のフォトグラファーの方から写真を習ってきましたが、全員まったく違いました。
「写真はやっぱり縦に撮るべきです」という方もいれば、「写真はできるだけ横に撮りましょう」という方もいます。
ボケ写真が好きな人、アート的な芸術性を求める人、カワイイ感じを表現したい人、完璧な構図で完璧な明るさを第一に求める人、などなど。
「春を感じさせるもの」の課題を出してくださった先生は、アーティストです。
だから人物のポートレートとか、綺麗なだけの景色などよりも、芸術性のある写真をご自身もよく撮られていらっしゃいますし、課題の評価が高いのもそのような作品です。
だから本来は、お花とか子供とか動物、それから食べ物など身近に存在する幸せを撮ることを好む私ですが、どうやらこの先生の好みにアジャストさせようとしているみたいです。
今はその方から学んでいるのですから、それはそれでイイ事だと思います。これからしばらくは、先生の路線にも親しんでいこうと思います。
みんなにシェアしたくなる写真は完璧な写真ではない
余談ですが、 おととし学ばせていただいた方は、完璧主義のフォトグラファーでした。
それはそれはスパルタでした。わからない生徒がいるとイラッとします。私に足りないところが強化されました。
その方と一緒に撮影に行くと、完璧な写真が撮れます。構図もバッチリ、ピントもぴたっとあっていて、写真テクニックがキラリと光ってる写真ばかり撮れます。
それらを見ると、自分がこんなに上手に撮れるなんて!とびっくりしますが、私はその先生と一緒にとった”完璧な写真”を、一枚たりともブログにアップしたことがありません。それから、フェースブックにさえ掲載したことがありません。
「皆さんと共有したい」と感じられるものが1つもなかったから。
私がブログ読者さまやフェースブックで繋がっている方達に見てもらいたいと思うフォトは、私の心が動いた時にシャッターがおりたものです。
小さい幸せを見つけた瞬間の画像です。
それが、iPhoneでサッと撮ったものであっても、ちょっとぐらいピンぼけしていたとしても、バックにヘンなものが写ってても、私の心がうごいた瞬間を、シェアーしたいと思うのです。
子供みたいだなぁ私
話しを元にもどします。
私が先生の好みに合せて提出する写真を選んだ様に、「相手の好みを空気感で察して相手に合せてしまう」という行動は、「親の顔色を見ながら、親が好む言動をとり親の好む選択をしていく子供達」の行動に似ていませんか!?
人生経験豊富な大人が、子供をより良い方向に導くという意味では良いのかもしれませんが、度が過ぎると”没個性”になってゆき、子供が自然体から遠く離れてしまいかねません。
何事も「それをやっている自分に気づいていること」は大切ですね。
でも、子供達はそんな高度な自分観察などうまくできないでしょうから、大人達がそういうこと(無意識の誘導)をしないように意識することが大事ではないでしょうか。
自分はもしかしたら、「子供が親の好みを空気感で察してそれに合せて選択する」ような言動をしてる可能性がある、ということを頭の片隅で知っていること。大切だと思うのです。
大人の私も、自分の見ている世界を写真に撮りシェアするように、自分らしく生きていきたい。3月の小春日和にそんなことを思っていました。