東日本大震災のあった3月11日は、都内でミーティングをしていました。
銀座のケーキ屋さんの2階カフェにいたのですが、建物が古くかなり揺れました。
大地震に怯えた高齢者の男性が、止めようとする奥様を引っ張り、螺旋階段を揺れでフラフラしながら降りようとしていた光景が目に焼き付いています。
かなり長い時間大きく揺れましたが、震源地は東京ではないということはなんとなく分かっていました。
全ての交通機関がストップし、街の中では公衆電話を待つ長い列ができ、大勢の人がタクシー乗り場に並んでいました。
ごったがえす銀座の街で、人々が整然と行動し、知らない人同士が 情報交換し合い、譲り合いの精神で行動している光景を見ました。
また、閉店時間を過ぎても三越デパートは各フロアを解放し帰宅できない人達に椅子を出して対応していました。
地下の食品 売り場では、時間を過ぎても食料品を販売していてくれました。
アップルストアー銀座では、駆け込む人々に心良く充電をさせてあげたり、インターネットで情報を見ることを許してくれていました。
デパートやお店の店員さん達は、自分自身も帰宅難民になってしまった というのに、立派に対応してくださっていたので、感動しました。
公衆電話から都内に住む友人宅に電話してヘルプを求めました。公衆電話には長蛇の列ができていたので、一件しか電話はかけられません。
というか、これは日本人の素晴らしい性質。
なんとなく人々に浸透している常識が一致していたから、公衆電話からかけるのは「用件だけ、一件だけ」という空気感で、一人一人が自主的にそのようにしていました。
友達の家まで歩いた
私たちは銀座から汐留にある私の友人宅まで歩いていって、家電話を借りました。携帯電話回線がパンクして全く繋がらなかったからです。
私も銀座で一緒だった友人も、汐留の家電話から家族とコンタクトが取れたので、車で迎えにきてもらえる手はずを整えられました。
うちでお留守番していた3ワンと3ニャンは無事で、元気にご飯も食べたと聞いて、安心しました。
普段なら40分ほどでこれる場所なのに、家人は出発から6時間もかかって汐留に到着しました。
公衆電話を譲り合った人たち、声がけや情報交換をし合った人たち、汐留の友人、ヘルプしてくれた人達のおかげで、車で迎えに来てくれた家人となんとか会う事ができました。
道中、歩いている人が大勢いました。
普段は車しか通らない鉄橋にも人が沢山歩いていました。
途中でスニーカーを買っていた人や、自転車を購入して乗って帰っていた人もいたそうです。
途中で立ち寄った国道沿いのコンビニでは、トイレに長い列ができ、食料品はほとんど売り切れ状態でした。
7時間かかって帰宅
道路はずっと渋滞していたので、帰宅したのは翌日の3月12日の朝6時半。40分で着く場所ですが、結局7時間ほどかかりました。
暖かいお風呂につかりながら「自分はなんて幸せな環境下にいるのだろう」と感謝の気持でいっぱいになった。
かわらぬ日常がめぐってくること、本当は奇跡のようにありがたいことなのかもしれません。
冷静になって考えてみたら、1晩くらいどこかで仮眠するかホテルに泊まるかして、翌朝帰宅した方が賢かったかもしれない。
それは、その他の車で帰ろうとして12〜3時間かかった人や、何時間も歩いて帰宅を試みた人々にとっても同じこと。
東京周辺は、交通マヒ以外は直接地震の被害を受けていないのに、人々はなぜ大変な思いをしてまで帰宅しようとしたのか。
やはり『HOME』にたどり着きたい気持が大きかったのだと思う。
ロジック思考よりも情報よりも何よりも、とにかく家にたどり着きたい、それが私達の本能なのでしょう。
地震と津波の被災地の方々、HOMEを失った方々の事を考えると、いたたまれない気持になります。
ご家族友人を失った方はもっと。
自分にできる事といえば、得た情報を皆にシェアーすること。
そして自分自身のすべき事をきちんと行なってゆくこと。
それから、生きていることに感謝すること。
今回の地震で、人の優しさや日本人の根底にある 「人と人との助け合い」の心に触れて、感激しました。
周囲との関係や人との繋がりをより大切に想ってゆきたいし、被災地の方のためにできる事をしていきたいと思います。
写真は、やっと家路にたどり着きそうだった頃にのぼった朝日です。
どんなにヒドい惨事が起こったとしても、『陽はまた登る』のですね。